僕を惑わす、働く女性-旅館の女将さん-

10年以上前になるが、学生時代に当時の彼女と温泉旅行に出かけ、旅館の仲居さんに惑わされた。

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栃木県馬頭温泉にあるその旅館はいわゆる老舗風で、広い玄関にゆったりした露天風呂、外には小さな庭園が付き、宿泊客は年配者が多かったように思う。しかしお高いのかといえばそんなこともなく、確か記憶では一泊二食に東京—旅館の往復バスが付いて、一人8千円くらいだったはず。むしろ安すぎて、素泊まりのうえ、足とイビキの臭い知らない中年男性が相部屋でも文句が言えないレベルだが、実際はもっと別のところに落とし穴があった。
それは宴会場で夕食をいただいている時のこと。御膳には山のものに海のもの、松茸の土瓶蒸しまで付いていて、僕と彼女は秋の贅沢会席に大満足していた。すると7割ほど食べ進めた頃合いで、仲居さんがやってきた。

「お食事はいかがですか?」
ベテラン風の仲居さんに丁寧に尋ねられ、いい気持ちの僕は正直に、
「あ、とっても美味しいです」
すると仲居さんはニコッと微笑み、
「ありがとうございます。で、お食事は?」
あれ、伝わってないぞ。そこで、
「いやもう本当、肉も魚も全部美味しいですね! 土瓶蒸しなんて初めてだし」
せいいっぱい褒めちぎり、彼女も同意して微笑んでいる。
「そうですか、松茸は季節のものですからね。……で、お食事は?」
「あ、いやだから、本当美味しくて……」
「はあ……?」
ええええー、すんごい欲しがるんですけどこの仲居さん! 今のじゃ褒め足りないですか? なんだなんだ、ひょっとして僕が食べたこの牛肉はこのおばさんが手塩にかけて育てたモーちゃんのお腹のあたりか? だとしたら軽々しく美味しいで済ませた僕が悪いぞ。なんてこった。
すると仲居さんは、
「そ、そろそろお持ちしますね」と言って、しばらくして僕らにご飯とお吸い物を持ってきてくれた。もはやみなさんおわかりだと思うが、なんのことはない。仲居さんの言っていたお食事とは、ご飯と椀もののことだったのだ。
まず前提として、この無駄なやり取りの元凶が僕の無知にあることは認めるが、でも僕らのリアクションを見て、「ご飯」と言い換えてくれればよくはないか。それともなにか、「ご飯はいかがですか?」と聞いたら、こちらが『ご飯=夕食』と変換して、やっぱり「いやあ、マジ最高の“ゴハン”っす。モーちゃんありがとう!」と返してくると思ったのだろうか。バカにされている!
一方あちらはあちらで、そろそろご飯が欲しいのではと聞いてやってるのに、なぜかそれには答えずヘラヘラしながら話を無理やり逸らしてくるおかしな若者だと思っていたに違いなく、全く不毛なやり取りであった。先にも書いた通り元はと言えばこちらの不勉強が祟っただけなのだが、勘違いに気づき彼女の手前えらく恥ずかしい気持ちになって、こんなことなら知らない臭いおじさんと来るんだったと密かに拗ねた。

“ほすぴたりてぃ”がどうのと言うつもりは毛頭ないが、仕事の場面でも相手の思考や理解度をイメージして接してあげることで、結果的に自分の仕事の効率化に繋がることがあるかもしれない。
ちなみにこれのお陰でなぜか松茸の土瓶蒸しがトラウマになってしまい、それ以降食べずに済んでいる。後々までに経済的で、実にいい宿であった。